男が弁当を好きなわけ

男が弁当を好きなわけ

  最近弁当を持っている男が多いらしい。かばんのほかに、小さなポシェットを持つ男が地下鉄の車内にも増えていると確かに思う。別に男だからといって、弁当を持つことが不思議なわけではない。人間である以上、食事はするし手料理だって食べる。しかし、男が弁当を食べるということは、それを誰に作ってもらうのかというところに、話題は集中しなければならない。

奥様や彼女、あるいは自分というのが候補になるが、他人ということもある。つまり、弁当屋の作る弁当やコンビニ弁当のことである。何度もそんな弁当は食べたことはある。飽きないようにするために日替わりのメニューには、マツタケご飯なんていうのもあった。豊富な単品の中から選んでカロリー計算したり、気分に合わせて量を調節したり。とにかく可能性は無限大にあるので、長持ちすると思っていたが、残念ながらどうアレンジしても物足りないのである。

特別グルメというわけでもないので、味に厳しいわけではない。冷めているとかプラスチックの容器に入っているからというわけでもない。何かが「足りない」と、弁当を持つようになる最近まで思っていたのだが、実はその逆であることに気付いた。

  弁当屋の弁当もコンビニ弁当もそしてお昼の外食も、選んだメニューから想像できる味を、見事に実現してくれるのだ。「だからなんだ、いいじゃないか。」という人は、生きるために食べているわけで、そもそもこの話には乗ってこれないであろう。しかし、想像通りの味であることの無味乾燥さを、少しでも体験したことのある人は、食べる前と食べた時のギャップこそ、食事の楽しみがあるんだとわかるのではないだろうか。

  もちろん、生きるために食べるのだが、食べるために生きるフランス人やイタリア人の作る料理はやっぱりうまいことが物語るように、和食も目で食べる。そして意外性という演出によって、食べるほうは期待していた味を、舌で探し出そうとするか、その意外性を飲み込もうとするのである。これが「味わう」ということではないだろうか。

  よく噛んでゆっくり食べることは、物理的に味わうことにすぎない。そうではなく、今日の味は昨日と違ったり、同じようなおかずでも微妙な変化が手作りには必ずある。だからうまいと感じるのだと、実際に弁当を持つようになって実感したのだ。

  大量生産された弁当に心がこもっていないというわけではないであろう。作り手が食べる人の顔がわからないと、どうしても気持ちが入らない、ということでもないと思う。手作りとの唯一の違いは、味の再現性を担保しないかするかである。奥様だって彼女だって自分だって、前回作った唐揚げと同じ味を再現しようと、朝から弁当を作るわけではない。健康や食べるときの状況を想像しながら、おいしくなるようにという気持ちだけで作っているはず。弁当とは、そういった丁寧な気持ちだけでできているからおいしいのだし、男好きのするアイテムなんだと、毎日思うのである。

文/松嶋範行


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筆者紹介/
松嶋範行(まつしまのりゆき)

1967年東京生まれ。早稲田大学理工学部資源工学科(現環境資源工学科)同大学院修了。専門は選鉱学。1996年よりドイツアーヘン工科大学にてプラスチックリサイクリングに関する研究を行う。日独の廃棄物処理・資源リサイクリングについての普遍性を模索する中で、最も重要なのは環境ソフトウエア産業の育成であると認識。2003年環境教育・システム総合コンサルタント「松環舎」を長崎市にて設立。行政の提供する環境アクションプログラムの策定やリサイクリングシステム導入、子どものため環境教育教材開発や、環境講座開催を手がける。また、環境イベントや環境コンテツプランニングなど環境ソフト事業アウトソーシングを展開。2005年には、第1回長崎打ち水大作戦を実施。2007年4月より渋谷区より特命を受け、渋谷区環境全課長(環境パートナーシップ担当)として、民間力を活かしながら、渋谷区をエコシティへ変革させるべく東京にて奮闘中。

 

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